Japonia Hortus

key to understand the Japanese garden

平安時代


 皇室が平安京に移り、京都はこの後明治に入るまで千年にわたり日本の首都として栄える。平安時代末期になると武家が台頭し、後に武家政権へと移行していく。
 この時代では二つの庭園様式、寝殿造り庭園及び浄土式庭園が造られ始める。

寝殿造りは中国に影響を受けた建築様式で皇族や公家が生活に用いていた。図は寝殿造り建築と庭園の略図である。

毛越寺
寝殿造り庭園略図


大覚寺大沢池
 寝殿の周りには建物が左右対称に建てられ渡殿で結ばれており、釣り殿などが庭に向けて張り出していた。寝殿造り庭園は建物の南側にあり、和歌に詠まれている風物などを模して造られ、池には少数の島を浮かべ朱塗りの橋で結び、寝殿前面には清めるために白砂利を敷き詰めた空間があり神事などの儀式及び宴や蹴鞠などの遊戯にも使われた。釣り殿では釣り・船乗り場・月見や雪見など多彩な用途で使用され、渡殿の下には流れが配置され水音で凉を取れるようにしてあり、渡殿と渡殿の間の空間には坪庭が造られ植物が植えられていた。
 現在完全な形の寝殿造り庭園は実存しておらず、神泉苑や旧嵯峨院(現大覚寺大沢池)などで一部を見ることしかできない。
 興味深いことにこの時代では画家が庭園の設計に従事しており、このことから庭園設計を行う専門職がまだ確立していなかったことがうかがえる。例としては嵯峨院庭園では画に造詣が深い武人の百済河成が名古曾の滝を巨勢派の祖と言われる巨勢金岡が庭湖石(中国で珍重されている、いくつもの穴の開いた石で太湖石と同じ)を組んだといわれている。

 また日本庭園最初の作庭書となる作庭記が橘俊綱により書かれ、寝殿造り庭園の作り方・石の組み方・風水による庭の景物の配置など当時の庭園様式を窺い知る事ができる。

 平安時代後期になると末法思想(仏教での不遇の時代・悟りを開くことができなくなる時代が来るという考え)が広まり、結果人々は阿弥陀如来にすがり浄土に行くことを目指し、公家たちは現世に浄土を再現しようと浄土式庭園を造り始める。
 浄土式庭園は構造的には寝殿造り庭園によく似ているが宗教的な意味を持つ点で違っている。一般的な浄土式庭園では阿弥陀像が収められている阿弥陀堂が西側に造られ、阿弥陀如来がいる西方浄土(西側)を庭園の東側から眺めるよう配置され、東側(現世)と西側(浄土)の間には二つを分かつように池が造られたが、時代が下るにつれ池に中島を置き橋が架けられ浄土に渡れるように進化していった。東北地方の浄土式庭園は様式が異なり、本堂が北側に造られ南側に池が広がる構造をしている。
平等院

日本庭園の歴史と種類